『納税者の権利救済制度確立のたたかい』(8) 著著、執筆TOP

国税不服審判所」答申と全商連の反対運動

 昭和37年の国税通則法の制定、行政不服審査法の制定などによって、税務上の処分については課税処分等に限らず、原則としてすべての処分が不服審査の対象になったほか、審査請求の際の協議団の取り扱いについても、従来、・協議団の議を経なければならない」となっていた規定を、協議団の結論を尊重する趣旨で、・協議団の議決に基づいてそれをしなければならない」と変更されました。しかし、これは法律上の表現の変更にとどまり、異議申し立てや審査請求の審理の実態は通則法や行政不服審査法の制定前の状況が改善されないだけでなく、ほとんど従来と変わらない状態が続いていました。

 そのため、通則法が施行されて間もなく、協議団制度に対する「同じ穴のムジナ」という批判がかえって高まってきました。

 行政不服審査法が、従来の不服審査手続きに比べて、審査庁にかなり厳格な手続きを要求し、かつ理由付記などの点でも国民の権利利益保護をはかる規定を整備したものとなっているので、それらの手続きが協議団において厳格に実施されるなら、納税者の権利救済の内容も大幅に改善されるものと期待されていたために、このような批判が高まったのは当然のことでした。

 このような背景のなかで、納税者の権利救済制度の欠陥は、手続問題にあるのではなく協議団の機構に基因するものであるという考え方が強調され、昭和40年ごろから、課税庁から独立した審査機関を設けるべきであるという要求が強まりました。

 そういう要求を背景に、昭和40年1月29日の衆議院大蔵委員会で、社会党の横山利秋議員が「租税裁判所」の設置を求める発言をしています。もっとも、この発言は具体的な構想を伴ったものではなく、思いつき的な要素を多分に含んだものでしたが、これが後に社会党の「国税審判法案」の出発点となりました。

 また、民社党も遅れじと、昭和42年5月ごろに、・租税審判所」構想を要綱案の形で発表しました。日税連も同年10月1日付の「税理士界」の主張欄で「租税審判所設置の提唱」を掲げ、いずれも「執行機関から独立した審査機関」という点で共通していました。

通則法「改正」の背景

 このような政界、実務界の論調は政府税調にも反映し、昭和42年12月の「税制簡素化についての第二次答申」において、「納税者の不服申立てないし権利保護制度のあり方について慎重に審議し、その結果について別途答申する」ことを明らかにしました。

 もっとも、その背景には、昭和38年の国税庁の民商弾圧のための更正・決定乱発によって不服申し立てが激増し、その処理のために協議団の機能が既に限界にきていたという事情もあったことは否定できません。それにもかかわらず、協議団は、主管部である局の所得税部門、法人税部門、資産税部門などにお伺いをたてないかぎり議決ができない実態にあり、大量の審査請求によって事実上機能が麻痺状態に陥っていました。

 そのような事情を考慮した場合、税務行政に対する国民の信頼をつなぎとめ、批判や不信をこれ以上激化させないためにも不服審査制度になんらかの手直しを加えなければならない時期にきていたということができます。

社会党「国税審判法案」を提出

 社会党は、昭和43年2月13日、「国税審判所」構想を要綱案としてまとめて発表した後、衆議院法制局の協力を得て「国税審判法案」を立案し、5月11日に議員提案として衆議院に提出しました。

 構想としては、国税審判庁は内閣総理大臣の直轄として大蔵省、国税庁から独立させようとしたところに特徴がありますが、審判官の身分保障や審理手続きについてほとんど配慮されておらず、手続的には行政不服審査法よりも大きく後退したものとなっていました。例えば、審判官は、審査請求人に対して職権で審尋し、文書その他の物件の提出を命じ、それを留置し、事業所その他の場所に立ち入り検査をすることができること、これを拒んだときは3万円以下の科料に処されることなど、権利救済制度としては考えられないいくつかの規定を含んでいました。

 つまり、衆議院法制局主導の課税庁の立場に立った法案となっていました。

 この法案に規定されていた審理手続きは、その後の税調審議において大いに参考にされ、国税不服審判所設置を含む国税通則法の「改正」に関する答申において国税審判官の調査権として書き込まれました。

日税連も対案を提示

 また、日税連では、会長の諮問機関である税制審議会の答申に基づいて独自の意見書を発表しました。この意見書は、@「事前照会回答制度」、A「更正処分の事前手続き」、B「事後の救済制度」の三つの部分からなっていました。

@事前照会回答制度とは、納税者が一定の税務処理をする場合にその条件を明示して税務当局に回答を求めた場合に、その回答に従っておこなった処理は否認されないという制度を設けようとするものです。この制度は、アメリカに前例があり、納税者が疑義をもつ個別の税務処理について法的安定性を与えようとするものです。わが国では、「処理がされたならば、事後的に適否の判断をする」という無責任な態度をとっているので、納税者は非常に不安定な状態に置かれているといえます。

A更正処分の事前手続きとは、更正処分をおこなう前に一定期間をおいて納税者に、申告に誤りがあると認められることを通知し、意見を述べる機会を与えた上で処分をおこなうというもので、憲法13条、31条が保障する適正手続の要請に応えるものです。これもアメリカの税務行政において実施されている事前手続きに慣らったものです。

事後の救済制度は事後手続きとして、大蔵省の付属機関として国税不服審査会を設け、課税庁から独立させるというものです。更正の事前手続きを設けることに伴い、異議申し立ては廃止し、行政段階における不服審査としては審査請求だけにしようという提言です。

 以上の@ABが日税連意見書の概要ですが、この提案は、後に日本税法学会など各界から高く評価されました。当時、私は、日税連税制審議会の役員をしており、答申の作成に直接関与していましたし、その内容について今でも@、Aについては実現することが望ましいと考えています。当時、日税連税制審議会は、杉村章三郎東大法学部教授(当時会長)や北野弘久日大教授(当時特別委員)などを委員に委嘱しており、この答申のほかにも「税務職員の質問検査権について」や「税務署長の裁量権について」など評価できる答申を出しています。

日本税法学会も意見書

 日本税法学会は、社会党案、日税連意見書、税調答申を比較検討する大会を開き、@不服申し立て前置主義の廃止、A裁決機関の独立性の確保の保障などを含んだ意見書を採択して内閣総理大臣に提出しました。特に、行政上の不服申し立てを強制する訴願前置主義(不服申立前置主義)の廃止を強く要求している点で優れた意見書であるといえます。

 全商連では、税調の「税制簡素化に関する第三次答申」が発表されると直ちにその内容を検討し、この答申が納税者の権利救済制度の改善に資するものではなく、むしろみせかけの改善の蔭で数々の権利抑圧を意図しているものであるという立場を明らかにして、国税不服審判所の創設を含む国税通則法の「改正」に反対する方針を打ち出すと同時に、国税通則法改悪反対運動に起ち上がりました。

昭和39年税理士法「改正」法案の廃案

 ところで、この時期に税理士業界は、もう一つ制度の根本にかかわる重大な問題を抱えていました。それは、税理士法「改正」問題です。

 税理士法は、シャウプ勧告に基づいて、昭和26年に旧税務代理士法に代わって制定されたものですが、その後、税務職員等に対する特別試験制度の導入(昭和31年、20年以上税務職員であった者に簡易な試験で税理士資格を与える試験制度)、登録事務の日税連への移管(昭和36年)等の改定を経て、昭和38年には国会の付帯決議(昭和36年の税理士法改正に当たっての)によって、「3年間を目途として税理士制度の全般にわたる検討を完了すべきこと」が求められていました。

 この付帯決議に基づいて、政府は、翌昭和37年8月、税制調査会に対して「税理士制度のあり方」を諮問し、税制調査会は昭和38年12月に「税理士制度に関する答申」をとりまとめました。この年は、ちょうど、国税庁が民商に対する大弾圧を開始した年にあたります。税調の審議が、この国税当局の反民商攻撃の最中におこなわれたものであり、その影響を受けたものであることは当然だと推測されます。

 政府は、この答申に基づいて税理士法「改正」案を作り、昭和39年4月7日閣議決定したうえ国会に上程しました。その主な内容は次のとおりで、試験制度を除いては、昭和55年の改悪案とほぼ同じものです。

  1. 税理士業務の対象税目を従来の限定列挙から原則として全税目にする。
  2. 附随業務として会計業務を設ける。
  3. 税理士業務に関する記帳義務を強化するとともに、使用人等に対する監督義務規定を設ける。
  4. 懲戒手続を整備するとともに、懲戒処分の効力発生時期を、処分確定の時から処分時に改める。
  5. 従来の科目別合格制の試験制度を廃止して一発試験とする。
  6. 税務職員に対する特別試験制度を廃止して、勤続20年以上で5年以上、管理職にあった者に認定により資格を付与する。

 この「改定」案に対して、税理士業界からは、「税理士の使命を、納税者の権利擁護にあることを明確にせよ」「税理士会の自主権を強化し、懲戒権を税理士会へ移譲せよ」などの修正要望が強く出されたほか、受験者からは、「従来の科目別合格制度を維持し、税務職員に対する資格認定制度をなくせ」という強い要望が出され、それぞれ強力な陳情・請願運動が展開されました。

 その結果、衆議院では懲戒手続きと試験制度の一部が修正された上で賛成多数で通過しましたが、参議院では継続審議となったうえ、次の第47回臨時国会でも継続審議となり、第48回通常国会においては、税理士業界や受験生の強い反対が与党内にも強い影響を与え、昭和40年6月1日、国会の会期満了によってついに廃案となりました。

 この運動の経験で、税理士業界のなかにも、自分たちの自主的な運動によって税理士制度の改革をかちとらなければ、納税者の権利擁護制度としての税理士制度の確立は不可能だという認識が高まり、税理士制度の改革は新しい段階へすすむことになります。

(せきもと ひではる)

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