『納税者の権利救済制度確立のたたかい』(5) 著著、執筆TOP

成立日前に施行された国税通則法の怪

国税通則法は、昭和37(1962)年4月2日に参議院本会議を通過して成立、不服審査及び訴訟(第8章)の規定を除いて即日公布、施行されました。六法を見ていただくと分かるのですが、この法律は、昭和37年4月2日成立したにもかかわらず、同年の付則で4月1日施行となっています。

 通常、法律は、成立日か、それ以後の一定の日を施行日とするのが常識ですが、この法律は2日成立、1日施行という特異な形式となっています。税法では、減税事項については、例えば、平成15年度改正で成立が3月31日で、施行が4月1日になっていても、平成15年1月1日以降のものについて適用するというような遡そ及きゆう適用は許されるというのが通説となっています。これに対して、増税事項について、4月1日施行で1月1日に遡及して適用するというのは、租税法律主義違反だということになっています。

 この点で、平成16年度税制「改正」で、土地・建物の譲渡所得の計算上生じた損失は、他の所得と通算できないという規定を1月1日にさかのぼって適用するというのは、租税法律主義に違反するものとして批判を免れることはできません。

 右の国税通則法については、増減税には直接関係がほとんどありませんからそういう問題はありませんが、4月1日施行を予定して法案が提出されたので、付則1条に施行日をあらかじめ4月1日と書き込んでありました。反対運動の結果、審議が遅れ、ついに年度内成立ができず、さりとて、施行日に関する規定を4月2日に変更するとなると「改正」案ということでもう一度衆議院に回付しなければならないということになり、さらに成立が遅れるという事情もあったのではないかと思います。

 はじめから形式論議のようなことになってしまいましたが、国税通則法制定反対運動の成果が、法律のこんなところに残されていることを念のため確認しておきたいと思って、あえてこのことを述べたわけです。成立と施行に携った参議院の法制局にこの点を確認してみますと、国税通則法の施行は「例外中の例外」で、ほかにはこういう例はないということでした。

国税通則法制定反対のたたかい

 国税通則法は、従来、各個別税法に規定されていた国税に関する共通的な事項を整理して、統一的な規定を設けようという趣旨で制定されたものですが、このような口実のもとに納税者の権利を侵害しかねない多くの問題点を抱えていました。

 政府税制調査会が発足したのは、昭和34(1959)年5月、第2次岸内閣のときでした。60年(昭和35年)安保闘争の最中ということになります。昭和32(1957)年に第1次岸内閣が成立し、60年安保の批ひ准じゅん強行直後の7月14日、第2次岸内閣の総辞職まで政権を握っていました。その間、安保改定阻止国民会議が結成されたほか、全国的に地域共闘組織が結成され、その数は2000にも達しました。また、昭和35年6月4日には国鉄労働者を中心に全国で延べ1000万人を超える労働者が参加する「安保改定阻止」の政治ストも数次にわたっておこなわれています。

 つまり、日本中が、消費税導入のときのように安保改定反対で沸き返っていた時期といえます。毎日のように数十万人が国会周辺に押しかけ、20万、30万人規模の国会請願デモがおこなわれ、6月15日にはデモ弾圧の警官によって東大生の樺美智子さんが殺害されるという事件も起きています。このような事態によって、予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日はついに無期延期となりました。

 岸内閣の総辞職に伴って、昭和35年7月19日、第1次池田内閣が成立しました。この時期は、安保反対運動の高揚もありましたが、運動を分裂させようとするニセ左翼の活動も活発化しました。いろいろな挑発活動のほか、浅沼稲次郎社会党委員長が演説会場で右翼の少年に刺殺されるという痛ましい事件も起きました(昭和35年10月12日)。

 こういう時代背景のなかで、政府税調は、岸首相の「国税及び地方税を通じ、わが国の社会経済事情に即応して税制を体系的に改善整備するための方策」について諮問を受け、2年余りの審議を続け、昭和36年7月5日に「国税通則法の制定に関する答申」を取りまとめて、池田勇人首相に提出しました。

 答申の審議の内容については、新聞などでその都度報じられていましたので、その具体的内容が明らかになるにつれて学界や業者団体、実務家などから反対の声が高まってきました。

反対運動の広がりとその成果

 国税通則法の制定に反対する主な論点は次のようなものです。

  1. 実質課税の原則を基本法に規定すべきである。答申は、税法の解釈および課税要件事実の認定について各税法の目的に従い、租税負担の公平を図るよう、経済的意義及び実質に即しておこなうという趣旨の原則規定を設けることとしていました。
  2. 一般的な記帳義務に関する規定を設ける。答申は、所得税と法人税について、青色申告者でない者についても一般的な記帳義務規定を設けることとしていました。
  3. 質問検査権に関する一般的規定ならびに税務調査に関しては弁護士、医師等特定職業人の守秘義務を解除する旨の規定を設ける。答申は、これら特定職業人の守秘義務について、税務調査については質問検査を拒否することができない旨の規定を設けるものとしていました。
  4. 源泉徴収票、支払調書等の法定資料提出義務違反について、刑事責任とは別に過怠税の制度を設ける。答申は、資料1件につき100円、同一人に対して年間10万円以内の過怠税の制度を新設すべきであるとしていました。<
  5. 無申告脱税犯に関する規定を新設すべきである。答申は、詐さ偽ぎその他不正の行為により税を免れた者について、過少申告の場合は従来の規定でよいが、無申告の場合は、犯意が認められるときでも「詐偽その他不正の行為」にあたるかどうか明確ではないので、無申告税脱犯に関する規定を新設すべきであるとしていました。 

 この5項目は、反対運動の高まりのなかで、昭和36年11月28日付 大蔵省主税局の「国税通則法の制定について」という声明のなかで、「その制度化については、今後における納税者の記帳習慣の成熟や判例学説の一層の展開をまつ方がより適当であると認めざるを得なかった」ので、「さらに将来における慎重な検討に委ねることとした」として、その立法化を断念しました。

 これは、もしこれらの項目を含めて立法しようとすれば、国税通則法全体が廃案にされてしまう可能性があると大蔵省も判断せざるを得なかったという事情と、この5項目を法案から削除することによって学界や業者団体、さらには反対運動に携っていたか、あるいは、立法に消極的な立場を示していた税理士業界などを分断しようという狙いが込められていたものと思われます。

 事実、この主税局声明によって、反対を決議していた多くの官制中小企業団体は、危険性はなくなった、として運動から手を引いていきました。その一方で、・人格のない社団等」についての規定をめぐって、これが労働組合や民主団体、文化団体等に対して税務行政権力が介入する危険性があるという問題から、総評を中心とする労働団体のなかに反対運動が展開されるようになりました。

全商連の果たした役割

 昭和36年12月12日には、労働組合や全国商工団体連合会(全商連)、税経新人会などが参加した「国税通則法反対東京連絡会」の結成大会がおこなわれ、これが国税通則法反対の全国的な運動の契機となり、翌昭和37年2月10日には「国税通則法反対減税要求中央連絡会議」(中島健蔵会長)が結成されました。これは、通則法成立後、「減税要求税制民主化中央連絡会議」に改称され、その後の納税者運動に大きな役割を果たすことになりました。

 この運動で全商連の果たした役割は大きく、高く評価されています。全商連では、答申発表直後の昭和36年7月17日の「全国商工新聞」に答申の全文を掲載するとともに、7月25日には「国税通則法早わかり」というパンフレットを発行し、通則法反対運動の先べんをつけました。私ども税経新人会も全商連と手を組んで、パンフレットの作成や講師活動によって運動の発展に積極的に貢献しました。

 労働組合や市民団体などが強く反対したのは、「人格のない社団等」に関する規定でした。政府案は、「法人でない社団又は財団で代表者又は管理人の定めがあるものは、国税に関する法律の規定の適用については、法人とみなす」というもので、人格のない社団等は、すべての税法において法人とみなされることになっていましたが、衆議院における審議の段階で、政府は修正に応じ、国税通則法についてだけ法人とみなすことになりました。

 税調答申には、先にあげた5項目のほか、各税法に個別に規定されていた各種加算税(過少申告加算税、無申告加算税、不納付加算税、重加算税など)の税率の統一と一般的な引き下げ、国税徴収法に規定されていた滞納処分に関する規定の整備、税額の確定方式についての一般的規定(申告納税方式や賦課課税方式など)、課税処分の除斥期間についての共通的規定(更正、決定等の期間制限)、それに、本稿の主題である不服申し立て制度についての共通的な規定などが含まれていました。

 国税通則法の制定により、国税に関する不服審査も、特別の規定があるものを除き、行政不服審査法によることになりましたが、行政不服審査については、通則法の諮問と同時期に、内閣総理大臣の諮問機関として設けられた訴願制度調査会(兼子一会長)において検討がすすめられ、昭和35年12月27日に答申がまとめられ、行政不服審査法要綱案が発表されました。

 この要綱案について各界からの意見が求められて法案として国会に提出されましたが、審議は通則法よりもさらに遅れ、昭和37年8月31日になってようやく可決・成立し、同年10月1日施行となりました。

 また、行政事件訴訟特例法の改正についても昭和30年(鳩山内閣当時)に法制審議会に諮問され、同審議会の行政訴訟部会において検討がすすめられ、昭和36年5月8日に「行政事件訴訟特例法改正要綱案」を決定、法案が国会に提出され、翌昭和37年5月7日に成立、同年10月1日施行となりました。

 国税通則法の不服審査と訴訟に関する規定、行政不服審査法、行政事件訴訟法は、右のような経過を経て、いずれも昭和37年10月1日から施行されることになり、これによって税務上の行政処分についても不服審査から訴訟に至るまでの手続上の法制が形の上では一応統一的に整えられたことになります。

 この体系は、昭和45(1970)年の国税不服審判所の創設を含む国税通則法の「改正」まで約8年間続くことになります。

憲法理念に反する権利救済制度の体系

 しかし、この権利救済制度の体系には、憲法の基本理念である国民主権、基本的人権の保障とは相容れない、国家権力の優越的な地位を認めた多くの規定が含まれており、現在でもその基本は温存されています。

 憲法上、国民は、国(具体的には行政権)と全く対等な法的地位にあり、行政処分に対する国民の不服は当事者間の争いということになります。私人間の争いであれば、話し合いや判決などによって結論が出るまで、当事者は相手方に対して一方的に権利を行使することはできません。

 ところが、国税通則法等によって整備された行政処分に対する争訟制度は、課税処分などが権限のある行政庁または裁判所によって取り消されるまでは、有効なものとして滞納処分などの手続きが続行されることになっています。異議申し立てや審査請求がされても執行は停止されません。これが制度上の根本的欠陥といえます。

(せきもと ひではる)

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