『納税者の権利救済制度確立のたたかい』(1) 著著、執筆TOP

不服服審査制度改善のための運動の軌跡

はじめに

1970年5月1日に国税不服審判所が発足してすでに33年の歳月が流れました。

 33年という歳月は決して短いものではなく、もう、多くの納税者はその前にはどういう制度があったのか、私たちの先輩が不当な税務調査や更正・決定などとどうたたかってきたのかを正確に記憶してはおられないと思います。

 また、身をもって不当・不法な税務調査や課税処分とたたかってこられた多くの先輩が、すでに第一線から退かれたり、たたかい半ばにして倒れられたりして、その教訓が十分現在の世代に引き継がれていないのではないかという危惧ぐもないわけではありません。

 しかし、納税者の血と汗と涙の結晶である権利闘争の成果を、正しく現代および将来の納税者運動に引き継いでいただき、今後の権利闘争のなかで生かし、より豊かなものにしていただきたいと思います。

 そういう意味で、国税不服審判所創設に反対し、納税者の権利救済制度をより優れた制度として築き上げようとしたたたかいの歴史を教訓として記録にとどめておきたいと考えて、本誌編集部の要請に応えてペンを執ることにしました。その任務が、私に適したものであるのかについては全く自信はありません。先輩や読者の皆さん方からのご意見やご指導をいただきながら稿をすすめていきたいと思います。

明治憲法下の訴願制度

 『法律学小辞典』の「国の不法行為責任」の項目に「明治憲法下における国の不法行為責任」について次のように説明されています。

 「明治憲法の下では、官吏が公権力を行使するのに際して人民に違法に損害を与えたとき、人民は国家に対して損害賠償を請求する権利が認められていなかった。すなわち、民法709条(不法行為の要件と損害賠償責任)・715条(不法行為における使用者の責任)が、公権力の行使に関するかぎり、適用されなかったのである。……さらに、公権力の行使に基づく損害については、行為者である官吏個人も責任を問われないという見解が根強く支配しており、被害者の救済には、はなはだ欠けるところがあった」(197ページ)。

 租税については、そのほとんどが賦課課税制度であって、その課税処分について不服がある者は、「訴願法」(明治23年制定)によって処分庁に対して「訴願」を提起することが認められていました。訴願が認められる処分は、訴願法1条に限定的に掲げられていて、それは次の7項目でした(1条)。

  1. 租税及び手数料の賦課に関する事件
  2. 租税滞納処分に関する事件
  3. 営業免許の拒否又は取り消しに関する事件
  4. 水利及び土木に関する事件
  5. 土地の官民有区分に関する事件
  6. 地方警察に関する事件
  7. 其の他法律勅令に於て特に訴願を許したる事件

 訴願は、処分庁を経由してその上級庁に対して提起すると規定されています(2条1項)。

 訴願に対する裁決についてなお不服があるときは、その裁決庁を経由してその上級庁に対してさらに訴願することができました(2条2項)。行政処分を受けた後60日を経過するとその処分については訴願を提起することができず、処分は最終的に確定します(8条1項)。また、裁決が出た後30日が経過すると上級庁への訴願はできません(8条2項)。

 行政庁の裁決についてなお不服がある者は、「行政庁の違法処分に関する行政裁判の件」(明治23年法律106号)という1条だけの法律によって、次の5項目だけが特別裁判所である行政裁判所に対して訴えを提起することができました。この訴えの提起は、訴願法の規定から、行政庁の最終的な裁決が出されたときから30日以内にしなければならないと解されていました。

  1. 海関税を除く外租税及び手数料の賦課に関する事件
  2. 租税滞納処分に関する事件
  3. 営業免許の拒否又は取り消しに関する事件
  4. 水利及び土木に関する事件
  5. 土地の官民有区分の査定に関する事件

 訴願法で認められていた「地方警察に関する事件」と「其の他法律勅令に於て特に訴願を許したる事件」は、行政訴訟から除外され、行政庁の訴願に対する裁定によって最終的な結論とし、それ以上の争訟は許されていませんでした。

 これらの規定から、明治憲法体制下においては、公権力による国民の権利侵害についてほとんど争う道が閉ざされていたことが明らかになります。

 日本国憲法は、昭和21年11月3日に公布され、昭和22年5月3日施行となりましたが、その98条(憲法の最高法規性、条約及び国際法規の遵守)1項において、・この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と規定されました。従って、日本国憲法の施行によって、憲法規定に反する多くの法規が違憲無効となったはずですが、例えば、先にあげた訴願法は、昭和37年10月1日の「行政不服審査法」の施行まで生き続けました。

 行政事件訴訟については、日本国憲法の施行後の昭和23年7月15日に「行政事件訴訟特例法」が施行され、昭和37年10月1日に現行の「行政事件訴訟法」が施行されるまでの間の臨時の措置として適用されていました。もちろん、日本国憲法の施行に伴い、行政裁判所が廃止され、右の特例法により行政訴訟は、行政処分をした行政庁の所在地を管轄する地方裁判所に提起することとされました。

 以上が、明治憲法体制下から現行憲法体制へ移行するまでの不服審査(行政救済制度)と行政事件訴訟の構造の大まかな動きですが、納税者の権利救済制度もそのなかに位置づけられていたことになります。

 特に、明治憲法下における国民の権利救済制度が、・国家無責任の原則」とも呼ばれる公務員や行政庁の故意または過失に基づく処分によって違法に権利を侵害された場合においても、原則として国は一切責任を負わないという思想と法構造は、天皇主権、国民の無権利と表裏一体の関係にあったことは確かです。そして、「訴願法」や「行政庁の違法処分に関する行政裁判の件」に限定列挙された一部の処分だけが「訴願」や「行政訴訟」の対象となっていました。少しくだけた表現をすれば、民間の病院の医療ミスによって死亡したり身体や精神に障害を負わされた場合は、民法の原則に従って損害賠償を請求することはできるけれども、国立病院に入院して同じ事故を起こされたとしても、国に対しては損害賠償を請求することはできないという理不尽が公然とまかり通っていたことになります。

 これに対して、日本国憲法では、その17条において、国・公共団体の不法行為責任を次のように規定しています。

憲法17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

 この憲法の規定を受けて国家賠償法が制定されています。

 国家賠償法1条および2条は、次のように定めています。

第1条(公権力の行使に基づく損害の賠償責任、求償権)
@ 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
A 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があったときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。
第2条(公の営造物の設置管理の瑕か疵しに基づく損害の賠償責任、求償権)
@ 道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があったために他人に損害を生じたときは、国又は公共団体は、これを賠償する責に任ずる。
A 前項の場合において、他に損害の原因について責に任ずべき者があるときは、国又は公共団体は、これに対して求償権を有する。

 これらの規定に基づき、旧憲法下では全く認められていなかった公権力の行使に基づく損害、責任が不明確であった公営物等の設置、管理の瑕疵に基づく損害についても国家賠償法に基づいて賠償請求が求められることになりました。つまり、公権力の行使等による損害、公営物の管理不行届き等の不作為による損害についても損害賠償の請求が民間の不法行為責任に基づく損害と同様に賠償請求が可能となったわけです。 そこで、なぜ、税務争訟と直接関係のない国家賠償法の問題を持ち出したのかといえば、それは、明治憲法下における、いわゆる国家無責任の原則ともいわれる体系が180度転換して、国民である納税者が、従来の「お上」と下々の「臣民」という関係から、一転して国家と対等の立場に原則的には立つことになったということを強調しておきたかったからです。

米軍占領下での占領政策と新憲法体系

 ところで、日本国憲法を頂点とした法体系のなかでは確かにそうでしたが、現実の問題としては、ポツダム宣言の受諾によって無条件降伏し、アメリカ軍によって完全に占領支配されていた終戦直後からサンフランシスコ平和条約によって日本が法的に独立を回復するまでの間は、形式的なものだったことも忘れてはならないことです。

 なぜならば、超憲法的な権力としてアメリカ占領軍がいて、その命令は絶対的なものだったからです。アメリカは、日本占領を開始した当時は、まだ、ポツダム宣言の趣旨にそって、日本の旧体制の解体と民主化を積極的に推進しようとし、そういう考えを持つ軍人を要所に配し、改革を推進してきましたが、1947年3月の「トルーマン・ドクトリン」を契機として冷戦体制に突入し、日本を対ソ戦の前進基地として利用する政策に転換を開始したからです。

 それ以前にも、すでに占領政策の転換の徴候は現れていました。1947年2月1日に予定されていた国鉄、全逓など官公労働者260万人を中心に民間労働者も参加する予定だった約600万人のゼネスト計画が連合軍総司令官マッカーサーの指令によって禁止されました。

 また、1949-50年に、日本共産党員とその支持者を米軍の直接の命令によって職場から追放するレッド・パージも強行されました。1950年5月、日本共産党中央委員全員と中央機関紙アカハタの幹部が公職追放されたほか、7月28日のマスコミ関係労働者700余人の解雇を手はじめに、年末までに民間企業、官公庁を合わせると1万数千人の労働者が思想、信条を理由として職場を追われました。これに先だって、1949年夏の行政整理(「定員法」の強行)や民間大企業の「合理化」のなかで、事実上のレッド・パージが大量におこなわれ、さらに、49年秋から50年春にかけて学校教職員千数百人が追放され、これらレッド・パージによる犠牲者は合計で約4万人にものぼったと推計されています。特に、このレッド・パージあるいはそれに先行しておこなわれた「定員法」による公務員の解雇は、労働組合の活動家、指導者を狙い撃ちにおこなわれたもので、その結果、労働運動は弱体化され、その主導権は反共社会民主主義勢力に奪われ、労働組合運動は大きく後退させられました。

 このような米軍の占領政策の転換は、日本の民主化を定めたポツダム宣言に完全に違反するものであるとともに、基本的人権を保障した日本国憲法とも相容れないものです。アメリカのこのような対日占領政策は、アメリカ本国における冷戦体制、思想・信条への抑圧の反映であり、1950年にマッカーシー上院議員によって開始された「赤狩り」と思想弾圧(マッカーシズム)の日本版で、戦時中に軍国主義者によって徹底的に流布され植えつけられた反共主義の風土と一体となって、戦後の日本の政治支配を支える反共体制を築き上げる上で大きな役割を果たしたものと思われます。(2・1スト、レッド・パージについては『社会科学総合辞典』新日本出版社を参照)

(せきもと ひではる)
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