隠された「昭和税制史」
ー元高級官僚が明かす「税制秘話」ー
東京会  関本  秀治


まえがき


昨年(08年)秋のシンポジウムで、「税理士制度の沿革と税理士の使命」について報告をさせていただきました。その報告のために改めて日税連発行の『税理士制度沿革史』や大蔵財務協会発行の『昭和税制の回顧と展望』(上・下巻)を読み返してみました。

その結果、これまで読み落していたいくつかの税制や税理士制度についての事実を発見することができました。そのうち、重要なことは、シンポジウムの際に口頭で報告しましたが、シンポジウムのために本誌に掲載していただいた報告(本誌559号、08年10月)には書いていないので、本誌の記録にも残しておいた方がいいと思って、いくつかの点をまとめてみました。

特に重要なのは、『昭和税制の回顧と展望』(昭和54年(79年)刊、以下、『回顧と展望』)です。この本は、平田敬一郎、忠佐市、泉美之松の三人の編集ということになっていますが、その内容は、旧大蔵省の主として主税局長等を経験した高級官僚の回顧録を、座談会の形式で、資料等を交えて編集したものです。座談会は都合16回にも及ぶかなり厖大なものですが、税法の立案や予算案などの編成に携わってきた人達のものですから、通常は公表されていない裏話が各所に含まれています。

しかも、出席者が顔見知りで、曽ての同僚や先輩、後輩などですから、その気安さから本音を吐露しているところに面白さがあります。いわば、「本音」の昭和税制史といえるものです。そういう意味で、重要な文献の一つであるといえます。


1. 申告納税制度が導入された経緯
ーねらいは、脱税犯の訴追ー


 昭和20年(1945年)に、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に無条件降伏しました。これによって、日本は米軍の占領下におかれました。昭和22年(47年)5月3日から日本国憲法が施行され、「最高法規」となりましたが、憲法の上に占領法規があるという矛盾した法制度がサンフランシスコ条約が発効するまで続きました。この条約の発効は、昭和27年(1952年)4月28日ですから、それまでは、占領法規や連合軍最高司令官の命令は、たとえ憲法の条項に違反するものでも有効なものとして効力を持つという状態が続きました。いわゆるレッド・パージやプレス・コード(言論統制)はそういう性格を持つものでした。

もちろん、平和条約の発効により、これら占領法規は、違憲無効となり、法規上は言論、集会、結社、思想信条の自由は完全に保障されることになりますが、占領中の事実上の行為(たとえば、レッド・パージにより職場から追放されたことなど)は、当然には回復されたわけではありません。現在でも、レッド・パージの被害者は、名誉の回復と損害賠償などを求める運動を続けられています。それはともかくとして元にもどります。

当時の日本は、米軍の無差別爆撃によって焼野原となり、生産力の激減による物資不足が深刻となったほか、戦費調達のために戦時中に大量に発行された国債の影響もあり、激しいインフレ状態にありました。因みに、対前年の卸売物価指数は次のような状況にありました。


昭和21年(1946年) 364.5%
22年(1947年) 195.9%
23年(1948年) 165.6%
24年(1949年) 63.3%
25年(1950年) 18.2%
26年(1951年) 40.2%
27年(1952年) 2.0%


つまり、昭和27年になって、悪性インフレは、ほぼ収束したことになります。もっともこれは、ヤミ価格を反映していないものですから、実態はもっとひどいものだったと思われます。この指数の出所は、日本銀行調卸売物価指数となっています(『回顧と展望』上巻375頁)。

日本を占領した米軍は、その占領費用を日本政府に調達するよう要求しました。それが「終戦処理費」といわれるもので、昭和23年度(1948年度)で国家予算全体の35.3%にも達していました。

その費用は、当然、税金として徴収するわけですから、徴税攻勢はすさまじいものだったようです。税務署員を督励して、滞納者の自宅にMPがジープで乗りつけ、差押えや競売を強行するなどがざらに行われました。

そんななかで、占領軍から、脱税者に刑罰を科すよう強い要求があり、これを受けて当時の事情を、忠佐市氏は次のように語っています。
「昭和21年の臨時財産調査令のときに、罰則を入れることについて大蔵省から法務府の方へ相談することになって、・・・・・・そういうことから始まって、そのあとは直接国税の罰則に懲役刑を導入する問題と間接国税犯則者処分法の憲法上の問題について、法律改正案をまとめる形で接触が始まりました。・・・・・・

その頃、私たちの方にはGHQの方から脱税をした者を処罰するように、それを促進しろと強調してくるわけです。それについて、最初は法務府とは相談していません。大蔵省として答えたのは、その当時の賦課課税時代の所得税、法人税では、政府が課税標準を決定し、徴収することになっているので、納税者に対してはそれほどの責任は負わしてないはずで、脱税を罰するにはそれだけの要件をたしかめなければならない。徴税の大部分は政府の責任として考えているので、簡単に納税者を処罰するわけにはいかないと突っぱねていたのです。それでは申告納税になったらやるのかと言うので、申告納税になれば、納税者の責任が考えやすくなるのでやりますよ、という返事をしていたわけです。

そこで、22年の秋ごろになって、1税務署で1件告発することにしてその報告を持ってこいという注文を受けたわけです。そのころ同じようなことを法務府の方へ注文されたのではないかと思います。そして、財務局からの報告をまとめて告発案件何件かを10月末か11月はじめにGHQに報告して、その告発が検察庁に受理される。検察庁に告発されると、法務府に情報がまとめられて司令部に伝わる。起訴されたという情報が司令部にとどくと、裁判所にも司令部からなんらかの挨拶があったのではないかと思われます。」(下巻128頁〜129頁)
日本国憲法は、昭和21年(1946年)11月3日に公布され、昭和22年(1947年)5月3日に施行され、国民主権、基本的人権、戦争の放棄(戦力の不保持を含む)、地方自治などが保障され、憲法の「条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」ことになりました(憲法98条1項)。

この憲法の施行に伴い、後になって申告納税制度は、国民主権主義の税法的な表現であるという解釈論が、北野弘久教授などによって確立されるようになりましたが、所得税や法人税について申告納税制度が導入された契機となったのは、実は、憲法の施行後にGHQの命令で脱税犯を処罰することを目的にしたものであったことが、以上の経緯によって明らかです。このことは、立法事実として認識しておくことが必要です。

このような経緯から発足した申告納税制度でしたから、その後の税務行政によって、納税申告書は、単なる課税資料の提出制度程度のものと認識されていたとしても不思議ではありません。

事実、申告納税制度が導入された昭和22年(1947年)のあと、東京国税局では昭和24年(1949年)分から、他の局では昭和25年(1950年)分から、「お知らせ」といわれる方式がとられ、税務署が「課税見込額をあらかじめ通知した。わが方の調査によりますと、大体これぐらいになります、・・・・・・本人を呼び出して通知する」(村山達雄元主税局長談、「回顧と展望」下220頁)という課税方式がとられました。

これは、それまで、大量の更正決定で不服申立てがなされ、税務署の事務負担が大変だったことが主な原因だったようです。この「お知らせ」方式になってから更正決定が70%から一挙に5%以下に減った(村山談、同前)といわれています。したがって、最初から目標額がきめられていて、それに基づいて不足すれば更正決定を乱発するという、賦課課税制度と変わらない徴税行政が続いていたことになります。したがって、申告納税制度が法定されたからといって、それが、当初から憲法の国民主権主義を税制面で支えるというようなしろものではなかったことが明らかです。

しかし、申告納税制度を、国民主権主義の憲法体系と整合性を持たせるためには、その後の納税者の長い苦難の闘いが必要となったわけです。


2. 源泉所得課税の果たした役割
ーインフレ期の税収確保のための手段として機能ー


源泉所得税は、原則として給与等の支払いの時に、支払い者が徴収し、その翌月に国に納付することになっています。給与所得等に対する源泉徴収制度は、昭和15年(1940年)の税制改正で初めて導入され、それ以来現在まで延々と継続されてきました。

最近は、この源泉徴収の制度が、徴税コストの面からみても、収入の迅速さからみても徴収する側にとって都合のいいものであるため、社会保険料はもちろん、住民税や介護保険料、後期高齢者医療保険料にまで形を変えて拡大されて、それが社会問題になっています。

戦後のはげしいインフレの中で、通常の翌年の申告、納税を待っていたのでは、税収の額が大きく目減りしてしまいます。もちろん、給与も、はげしいインフレに対応して年間に何度となく引き上げられていました。年間で、対前年比300%とか200%といった物価上昇率でしたから、毎月昇給してもらわないと労働者は食べていけなかったわけです。

こういう情勢によく対応できたのが、毎月徴収して毎月納付する源泉徴収制度だったわけです。ほとんどタイムロスなく収入に見合った税収を上げることができたからです。このあたりの事情を、当時の当局者は次のように語っています。

  「勤労所得源泉課税のはじめ」
平田 もう一つ、これは亡くなった渡辺喜久造君(後に主税局長、国税庁長官)のために述べておきたいのでだけれども、勤労所得の源泉課税は、率直に言ってそれまでは余り問題にしていなかったのが、ドイツの税制を調べると、当時、ものすごい源泉課税をやっていた。しかもフラットな税じゃなくて、ちゃんと簡易税額表をつくって、源泉課税をやって相当な収入を上げていた。これをやらん手はないじゃないかといって、渡辺喜久造君と一緒に研究して、勤労所得に源泉課税を始めたわけですよ。これはその後、少なくとも税の立場からいったら、大変な意義あるものとなった。申告納税主義のアメリカなども、戦後、日本をまねたわけですよ。
山田 (山田義見、主税局企画課長などを経て大蔵事務次官、後に会計検査院長)終戦のあの混乱時代に税がとれたということは、勤労所得に対する源泉課税を続けていたからです。
平田 しかも、最初は分類所得税でフラットなものだけやっていたのを、戦後はできるだけ所得税を源泉で、しかも累進税率を適用してやった。だから、これはもう大変な発展なのですよ。しかし、これも最初にやるときは大分問題にしたものですよ。
松隈 源泉徴収には徴収交付金というのが幾らか出た。そして、シャウプが来て、国民の税は当然の義務じゃないか、それに手数料をとるというのはけしからんといってストップを食っちゃった。
手数料は、いまで申しますと源泉徴収票、当時の支払調書が1枚幾らという手数料だったのです。ですから、しれたものです。シャウプが来る前のシャベル一派のGHQの連中でした。」(『回顧と展望』上84頁)
このような経緯で源泉徴収制度がスタートしたわけですが、これは、戦後のはげしいインフレの時代に、それに見合った形で税収を確保できたというだけでなく、源泉徴収された後の手取額が自分の給与収入であるという先入観を一般的に植えつける結果になりました。それは、激しいインフレ下で、給与が遅配、欠配が続くとか猫の目のように変わる状況の下においては、確実に手許に残る現金だけが収入であると観念することは、それなりの合理性があったと思われます。このことが、労働者の税痛感を麻痺させ勤労所得重課の不公平税制を許している大きな要因となっています。

これは、私の持論ですが、賃金は、平均的にはその再生産費に合致するという資本主義社会の最も基本的な法則である価値法則によって決定されるのですから、平均的な賃金からは所得が発生する余地はない筈です。ここでいう再生産費とは、本人と平均的な家族構成の生活費だけではなく、子女を教育し、健康で文化的な最低限度の生活を維持するために要するすべての費用を含むものと考えなければなりません。

そのように考えれば、高級管理職や経営者の、利益の配当に当たるような高額な報酬だけが給与所得を構成すると考えられます。もっとも、そのラインをどこで引くのかということはむずかしいと思いますが、考え方としては成り立つ筈です。

自分の労働力以外に収入の手段を持たない労働者階級が、所得税の大部分を負担している現状は、何としても是認できません。特に、最近のように労働法制が、生産現場への派遣労働を全面的に合法化し、派遣労働が企業の収益の調整弁に使われるような現状を許すことはできません。派遣切り問題でクローズアップされたように、「給与所得」は、配当所得や不動産所得のような資産性所得にくらべて、担税力が極端に低いことが証明されています。解雇されれば、即、職・住・食を失うという現実をみれば、「給与所得」課税のあり方や、それと表裏一体となっている給与所得に対する源泉徴収制度についても、いま、改めて考え直す時に来ているように思います。

(せきもと・ひではる)