映画『不撓不屈』と飯塚税理士の実像
- 飯塚事件とTKC全国会について -
東京会関本秀治  
はじめに
映画「不撓不屈」が、06年6月17日に東急系で封切られ、「国税庁の不当な節税弾圧に対してたたかい勝利した税理士」として、飯塚毅税理士(04年11月没)が描き出されていました。この映画を見た、何も知らない人達は、こんな素晴しい税理士が居たんだと感嘆したに違いありません。

ところが、飯塚事件の真相とその後の飯塚税理士の行動を知っている人びとからは、そういう捕え方に疑問や批判があがっています。特に、飯塚事件当時、税経新人会に参加していた税理士や、その後、飯塚氏が、TKCという計算センターを使って税経新人会や民主商工会に加えた反共攻撃のことを知っている税経新人会の会員の方からは、税経新人会や税経新報の編集部に対して、この問題を放置してよいのかという意見も寄せられたと聞いています。

そこで、この事件と、その後の飯塚氏の行動を知った者として、少なくとも税経新人会の会員の方には、真実を伝える責任があると考えて、この稿を書くことにしました。

もっとも、このことを書くのに、私が適任であるかといえば、決してそうではないと思います。当時、「飯塚事件対策協議会」(飯対協)の活動に実際に参画しておられた阿部国博先生、渡部至先生などにお願いするのが筋と思いますが、この件で文献を調べたり、他紙にいくつか寄稿し、手許にそれなりのデータを揃えている私が、書く方が手っとり早いだろうということで、この仕事を引き受けることにしました。飯対協の事務局長をしておられた吉田敏幸先生は、もはや帰らぬ人となられましたが、幸い、吉田先生は、税経新報176号(75年11月号)に、「飯塚事件覚書」という詳しい記録を、先生独自の「吉田メモ」に基づいて残しておいてくださいました。

この記録は、今回、同名の原作『不撓不屈』(高杉良)と照合してみて、実に正確であることがわかり、改めて「吉田メモ」の威力を感じさせられました。この稿を起こすにあたって故吉田敏幸先生に深く敬意を表すものです。

飯塚事件とは何か
順序として、そもそも飯塚事件とはどんなものだったのかを簡単に説明しておきたいと思います。

飯塚毅税理士は、昭和36年頃から従業員に対する利益還元型の「別段賞与」の支給を節税対策として指導してきました。これは、期末の決算整理において、法人に利益が出た場合に、その一部を従業員に対する利益還元として未払賞与を計上し、源泉税を支払ったうえこれを従業員からの借入金に振り替え、一定の利息を払いながら5年ないし10年に分割して返済するという形態をとりました。

このほかにも、旅費規定を作って、役員や従業員が業務上出張した場合に、当時の一般常識からみると高額と思われるような日当を支払うことも指導しました。

未払賞与は、現在は厳格な要件が求められていますが、飯塚氏が指導、実施したものは、当時の税法上、まったく適法なものでした。ところが、関信局は、これを違法とみなして更正処分をし、飯塚氏は不服申立てを経て訴訟にまで持ち込んでいました。

飯塚氏は、鹿沼(栃木県)と東京に事務所を持っていたので、関信局と東京局は、「叩けば何か出るだろう」という予断をもって、昭和38年6月24日に、いっせいに飯塚氏の関与先数十件の調査を開始しました。これが飯塚事件の発端です。

飯塚事務所は、吉田先生の「飯塚事件覚書」(以下、「覚書」とします。)によりますと、「吉田先生、飯塚事務所のマニュアル(職務管理規定)はね、所長が絶対に責任を負わされることが無いように出来ている完璧なものですよ。事務所職員が偽証しない限りね。このマニュアルは門外不出ですが、吉田先生は絶対信用できるので、先生にだけは、特に差し上げてもよいですよ。」というように、職員に全責任を負わせる仕組みを作りあげていましたから、実際に、「叩いてもホコリが出ない」状態だったようです。

吉田先生は、「飯塚事務所のようなマニュアルには関心がなかったので、『結構です。』と謝辞した」ようですが、私も、そんな責任を職員だけに負わせるような「マニュアル」には関心はありませんし、責任はすべて税理士である自分自身で負うつもりでいます。そうでなければ、職員は、所長のために働いてはくれないでしょう。

国税当局は、飯塚事件に着手すると記者会見まで開いて、「飯塚税理士は脱税指導をしている。税理士法違反と私文書偽造で告発し、懲戒処分も検討している」旨の新聞発表もしています。指揮をとったのは、当時の関信局直税部長安井誠氏です。彼は、その後、大蔵省証券局長になり、「すべての株式会社に公認会計士の監査を導入するべきだ」とぶち上げ、商法改悪反対運動の火付け役になったことでも私たちに知られています。

また、当時の政府や国税当局の当事者は、「覚書」によりますと次のとおりです。
  • 総理大臣池田勇人
  • 大蔵大臣田中角栄
  • 主税局長泉美之松(前東京局長)
  • 国税庁長官木村秀弘
  • 同直税部長鳩山威一郎(前関信局長)
  • 東京国税局長植松守雄
  • 関東信越局長広瀬駿二
  • 同直税部長安井誠
(以下略)
いずれも、少し古い税理士ならば知らない人はいない錚々たる人物です。
調査は、執拗を極め、当局は、関与先に対して飯塚税理士との顧問契約を解除すれば調査に「手心」を加えるとか、別の税理士を紹介してもらいたいという申出書を税務署長宛に出させるなど、卑劣な手段で切り崩しをはかるとともに、「脱税」についての証言をとりつけようとしました。

検察も、国税当局の要請を受けて捜査を開始、自宅や事務所の捜索をしただけでなく、昭和39年3月14日には飯塚事務所の職員4人を脱税や税理士法違反の嫌疑で逮捕するなどの暴挙をあえてしました。この刑事事件については、奇妙なことに主犯がいないまま、最終的には、証拠湮滅の罪で起訴され、飯塚氏が国税当局と実質的に「和解」した後まで裁判が続けられ、結局、起訴された4名は、昭和45年11月11日いずれも無罪となり、判決は確定しました。

この事件は、国会でもとりあげられ、社会党の横山利秋議員、平岡忠次郎議員などが、不当な弾圧事件として国税当局を追及しています。そのあと、地元の議員として、渡辺美智雄自民党議員も質疑に立ち、このあたりから飯塚氏は自民党とのつながりを持ちはじめたのではないかと思われます。

事件発生から1年余り経った、昭和39年11月に、社会党の戸叶武参議院議員、戸叶里子衆議院議員夫妻が、飯塚氏が参禅していた那須の雲厳寺の植木老師と共に木村国税庁長官を訪問し、税理士法違反や脱税で立件できないで困惑していた国税庁と飯塚氏との間を「とりなし」、事実上、「一件落着」となったようです。

飯塚氏は、その後、高田茂登男著『税務署への告発状』(三一書房1971年2月刊)への「あとがき」として、「・・・私は、声なき老師の親言に従がい、宗祖臨済や荘子の生き方に従うこととした。・・・」として、「国税当局と和解する道を選んだ」ことを事実上、告白しています(「覚書」16頁)。

吉田敏幸先生は、飯塚氏にとって、事件はいつ終ったのかはわからないが、「私達のとらえた『飯塚事件』は、全く終っていない。『飯塚事件』を起こした税務官僚の職権濫用は根絶されるどころか、ますます陰湿巧妙になっているからである」と語っておられるのは、まさに、「飯塚事件」の本質を突いたものだと思います。

計算センターTKCと税経新人会
飯塚氏は、国税当局と「和解」したあと、株式会社栃木計算センターを設立して、代表取締役に就任し、計算センターの事業を本格的に開始します。TKCは、栃木計算センターの頭文字をとったものと思われます。

TKC全国会の結成は、昭和46年(71年)のことですが、当時は、まだ現在のように計算センターや会計ソフトの普及が一般化しておらず、TKCは、会計事務所向けの計算センターとしては最も進んだサービスを提供できるものだったと思います。税経新人会のメンバーなどが中心になって全国各地で「飯塚事件」の真相報告会などを開き、事件が税理士の中でかなり広く知られるようになり、真相報告会などを通じてTKCと飯塚氏の存在も知られるようになりました。

TKCのことを飯塚氏から聞いた税経新人会の会員の中にも、TKCを利用したいと考える人も出て来たのは、ことの成り行きから当然でした。また、飯塚氏も、「飯塚事件」を支援してくれた税経新人会の会員に対しては「特別料金」で提供しますと語っていました(覚書」25ページ)。

ところが、TKC全国会ができてから税経新人会員が入会を申し込んだところ、「先生は、当会のネガティブリストに掲載されているので入会を謝絶します」という趣旨の「入会拒絶通知書」が送られ、同時に、払い込んだ入会金も返却されてくるという事件が相次いでおこりました。神戸の松本茂郎会員(故人)、九州の皆吉栄五郎会員などがその例です(税経新報170号等)。

その後、飯塚氏は、自民党の「民商対策」として「小規模事業者対策」に全面的に協力し、TKC会員に対して、商工会や商工会議所の「顧問税理士」を引き受けることを、各税務署長宛に申し入れさせること(昭和49年〔74年〕12月)、当時、既に問題となっていた付加価値税の導入に積極的に賛成すること、税理士に対する監督権の強化、記帳義務の法制化、「白色申告制度の廃止」などを主張し、「飯塚事件」当時とは大きく変身していました。

これに対応して、税経新人会全国協議会常任理事会は、「税経新人会の会員と税理士の皆さんに訴えるTKCの新たな動向に関連して」とする飯塚氏に対する反論を発表しています(昭和50年〔75年〕5月18日、税経新報171号)。

また、元理事長の吉田敏幸先生は、税経新報176号(昭和50年〔75年〕11月15日)で、最初に書いた「飯塚事件覚書」で、飯塚氏の変節の経緯を事実をもって克明に発表しました。さらに、全国協議会常任理事会は、同年12月6日付で、「飯塚氏の無責任な非難と中傷に答える」(税経新報177号、178号〔昭和50年、75年12月15日、昭和51年、76年1月15日〕)という詳細な反論を展開しました。

当時の飯塚氏は、「飯塚事件」発生当初の頃とは全く変わり、税経新人会を「共産党のフロント組織」であるとか、同様に、民商も「共産党のフロント組織」であるとか宣伝し、これと徹底的に闘うことを宣言し、TKC全国会から税経新人会員は排除することを基本方針として掲げるようになりました。

前記の昭和50年(75年)12月6日付の全国協議会の反論では、飯塚氏がEC型付加価値税導入に全面的に賛成していること、税理士法改正問題については、日税連が全国の税理士の討議を集約して作り上げた「税理士法改正に関する基本要綱」の税理士の使命を「納税者の権利擁護」にあるとする考え方に反対し、納税者に一般的な記帳義務を課したうえ、それを指導監督することによって、「租税正義の実現」をはかることを使命とすべきだと主張していること、政府・自民党の推進する、「民商対策」としての商工会や商工会議所の「顧問税理士制度」に、日税連の「組織的な対応」という方針を無視して、TKC会員が個別に各税務署長宛に協力申込書を提出させたこと、などを主な論点として反論を展開しました。

昭和49年(74年)12月25日付の飯塚氏のTKCの各地域会会長、各地域内支部長宛に出した、「同志的関係樹立のための国会議員指名推薦に関する件 緊急依頼」と題する秘密文書には、TKC会員は、各選挙区毎に自民党候補者の後援会を作り、1議員当たり5000ないし20000件の企業に対して文書を送付することを義務づけること、非協力のTKC会員は除名処分にすることなどを指示しています。

計算センターを利用しようと入会した税理士に対して、強制的に自民党後援会に入会させ、選挙活動をしなければ計算センター会員を除名するというのですから、これはもはや商取引ではありません。

また、TKC全国会会則によれば、会長(当時は飯塚毅氏)には任期の定めがなく、次期会長は会長の指名による(4条2項)、こと、会則の改正は「会長が行う」(8条)など、およそ民主的な会務運営とは無縁な「飯塚独裁」体制が規定されています。


飯塚毅氏の人となり
吉田敏幸先生は、「覚書」で、次のように述べておられます。それは、はじめて飯塚事件のことを知り、東京税理士会浅草支部で、有志が集まり、飯塚氏を招いて事件の真相を聞いた時の様子を描いた部分です。
飯塚氏の報告を聞いているうちに、彼に対する敬服の念と当局に対する憤激と共にふと「二つの違和感」を私は感じた。

一つは、飯塚氏が、「東京で、このように立派な皆さんにお会いして百万の味方を得た思いです。私のところ(注 栃木県鹿沼市)では税理士も税務職員も程度が低く、馬鹿ばっかりです。」と言ったこと。
・・・・・・
もう一つは、飯塚会計事務所の経営管理組織と税法学に関する造詣について、「世界一」と思われる飯塚氏の自惚れである。

飯塚氏と初めて会った時に、私が感じた飯塚氏の大衆蔑視感と自己過信の印象は、その後何回となく飯塚氏との友好的な接触を続けた中でも変らず、今日まで来ている。
映画や小説の『不撓不屈』の中では、中小零細企業家や納税者の立場に立って、個人的な利害関係を捨ててひたすら献身的に活動する不屈の闘士のように描き出されていますが、実は、第一印象で、「大衆蔑視と自己過信」の権化であることを見破られてしまうような人柄であったことがうかがえます。

飯塚事件で逮捕された4人の職員の刑事裁判は、飯塚氏が国税当局と「和解」した後も続けられました。これは、飯塚氏の「和解」とは関係なく、刑事事件として起訴した以上、検察側が公訴を取り下げない以上、判決が出るまで続けられます。検察の面目にかけても、一度起訴したら、途中で公訴を取り下げることはありえませんから、結局、昭和45年(70年)11月11日の無罪判決まで続けられ、検察側の控訴がなかったため無罪が確定しました。

吉田敏幸先生は、飯塚事件の刑事裁判で、昭和44年(69年)2月25日に、弁護人側の証人として宇都宮地裁の法廷で証言されています。他にも証人を依頼した税理士が居られたようですが、結局、当局の圧力か何かの理由で証言を断り、吉田先生だけが税理士として証言されたことになります。

この日、飯塚氏は、吉田先生に、「最後まで、この飯塚のために動いて下さったのは、吉田先生だけです。心から感謝します。」と礼をいっています(「覚書」24ページ)。

その日、無罪になった4人の被告人の人達に、吉田先生が、「あなた達は、どうして飯塚事務所をやめたのですか」と尋ねると、「とても、飯塚先生には、ついて行けませんから」と答えたということです(「覚書」25ページ)。「所長が絶対に責任を負わされることがない」マニュアルで仕事をさせられている職員としては、当然だろうと思います。

映画では、保釈された職員4名が揃って飯塚所長の前で、「退職したい」旨の申し出があり、飯塚氏は、「御苦労様でした。それぞれ独立するのがいい。お客様も持っていっていい」と快くこれに応じたことになっていますが、実態は果たしてどうであったのか、私にはわかりません。それを推測するには、吉田先生に対する4人の元職員の方々の感想が参考になるでしょう。

「覚書」によれば、飯塚事務所を激励訪問した後、中央経理事務所の職員に感想を聞くと、「素晴らしく近代化された飯塚事務所の内容にはびっくりしましたが、あの事務所に勤めたいとは思いませんね」ということだった(「覚書」25ページ)そうですが、この言葉の中にも飯塚氏の人となりが現われています。

税経新人会に対するTKC会報を使っての反共攻撃や反駁文の中でも、飯塚氏は、自分が一番偉いのだといわんばかりの態度がありありと表われていて、いかにも見苦しいものがあります。そこには、通常、立派な人格者が持ち合わせている謙虚さや奥ゆかしさは微塵もありません。

飯塚事件の歴史的背景
昭和38年(63年)といえば、木村国税庁長官が、強権的な税務行政を推進するために、その執行の妨げとなる民主商工会を撲滅することを宣言し、全国的な民商弾圧を開始した年です。また、国税内部では、全国税労働組合に対する弾圧、分裂工作がはじまり、第二組合を作らせ、人事や昇給で第一組合を差別する策動を初めた時期とも一致します。

これは、その前年、昭和37年(62年)の国税通則法制定のときに、民商や全国税、それに、わが税経新人会などが中心になって反対運動を展開し、当局が当初企図していた「一般的な記帳義務規定」、「実質課税の原則」、「無申告脱税犯」など重要な5項目を削除させた運動がその背景にあったといえます。

国税通則法は、前年の税調答申を忠実に法案化したものですが、答申が発表されるや否や、学界でも大きな論争が展開され、日本税法学会でも、内閣総理大臣宛に各論を含めて「意見書」を提出しました。国税通則法制定反対運動は人格のない社団等の規定をめぐり税制などに普段はほとんど関心のなかった労働組合にも拡大し、政府は、予想もしていなかった強い抵抗に出会うことになります。

この反対運動は、与党議員にも影響を与え、原案に固執すると廃案に追い込まれる可能性もでてきたので、昭和37年(62年)2月には、大蔵省主税局が異例の声明を発表し、前記5項目を削除し、将来の検討課題とすることになりました。こうして、国税通則法は修正のうえ昭和37年(62年)4月2日、ようやく成立し、即日公布、施行となりました。

全国税労働組合に対する弾圧、民商に対する弾圧は、この国税通則法反対闘争に対する国税当局の「仕返し」という性格を持っていたといえます。

また、当時、国税当局は、税理士制度を、税務行政を補完するための制度として再構築することをねらいとして、税制調査会に対して、「現行税理士制度の改善策」を諮問し、税調は、昭和38年(63年)12月6日、「税理士制度に関する答申」を提出しました。

この答申に基づいて、政府は「税理士法改正案」を作成、昭和39年(64年)4月7日、法案を国会に提出しました。この法案は、税理士業界の内部や受験者の間で大きな議論を呼び、業界内部からは、税理士の使命の明確化や、税理士の自主権の確立などの要求が強く出され、議員への働きかけなども活発に行なわれたほか、受験生からは、科目別合格制度を一発合格制度に改めることについて強い反対運動が展開され、これらの運動が与党議員も動かし、これらの運動が相乗的な効果をあげて、昭和40年(65年)6月1日、48回通常国会の閉会に伴い、審議未了廃案となりました。

税理士業界では、この運動を通じて「納税者の権利を擁護するための税理士制度」の確立の必要性が認識され、後に、「税理士法改正に関する基本要綱」を作りあげる契機となりました。もっとも、その後、日税連執行部の変節により、「基本要綱」は棚上げされ、昭和39年(64年)「改正」案とほとんど変らない税理士法の「改正」を、違法な政治献金までして、昭和55年(80年)の成立を許してしまいました。

これらの「改正」の主な点は、税理士の行う業務の対象を原則全税目としたこと(消費税の導入を想定して)、会計業務を付随業務として法定したこと、税理士事務所職員に対する監督義務を法定したこと、脱税等を発見したときの助言義務を新設したこと、などです。試験制度は、旧法をそのまま残しました。受験生の反対をおそれたからです。

このような、税理士法の「改正」を目前に控えて、国税当局に抵抗するような税理士はつぶしておこうという思惑が国税当局にあり、これが飯塚税理士に対する弾圧となって現われたのであり、このような社会的、政治的背景があったことをみておかなければ、飯塚事件の本質を正しく把握することはできないでしょう。

民商弾圧に伴って、脱会させた小規模業者の面倒を誰がみるのかという課題もありました。そのために作られたのが、昭和38年(63年)10月30日の国税庁、日税連、青色会の三者協定です。当局は、商工会や商工会議所の職員に、「臨税」(臨時に税務書類の作成をする者、国税局長の権限、税理士法50条)資格を与えることによって、これを青申会に取り込もうとしましたが、臨税の拡大に反対する日税連の抵抗で、税理士がその仕事を引き受けることで結着させられたのがこの三者協定です。無料申告相談に税理士が半強制的に狩り出されるようになったのは、三者協定の結果で、それが拡大されながら現在に至っています。「税務援助」も昭和55年(80年)「改正」税理士法で法定されました。

飯塚事件当時の情勢は、だいたい以上のとおりです。

結びにかえて
映画と小説『不撓不屈』は、飯塚事件が起き、彼が、当時、国税当局の不当な弾圧に抗して闘った姿だけが描かれており、プロローグとエピローグでは、いきなり昭和59年(84年)、平成2年(90年)に話がとんでしまっています。実は、この間に彼は大変身、大変節をとげていたのです。

原作は、ドキュメンタリー小説で、登場人物は、木村秀弘国税庁長官、鳩山威一郎国税庁直税部長、安井誠関信局直税部長など、すべて実名で登場します。飯塚毅氏はもちろん、逮捕された職員4名も実名です。それなら、読者や観客は、作者たちに、主人公は、その後も信念を貫きとおして権力の横暴と「不撓不屈」に闘い抜いたのかどうかを聞く権利があるように思いますが、どんなものでしょうか。

国税当局の不当な弾圧と闘い抜き、それに勝利したという小説や映画のテーマと、自民党や国税当局が推進する「民商対策」としての小規模事業対策に自ら進んで協力し、TKC全国会の会員に強制的に税務署に「協力申込書」を提出させた行為、あるいは、除名のおどしをかけながら、自民党議員の後援会に加入させ、選挙運動に狩り出した飯塚毅TKC全国会会長のその後の言動とは、いったいどのようにつながるのでしょうか。説明はつけようがありません。

人の評価は、その人の生涯を通じた言動によってはじめて客観的にきまるものだと考えるのは私だけでしょうか。原作者は、飯塚氏の「よいところ」だけを聞かされて、それを小説に仕上げてしまったのでしょうか。

映画館で買ったパンフレットによると、原作者は、取材に7〜8割の時間をかけ、執筆には2〜3割の時間しかかけないと語っています。それなら、TKC設立後の飯塚氏の行動についても、きちんとした取材をして、作品に反映してもらいたかったと思います。もっとも、そうしたら、物語はまとめようのないものになってしまったかもしれません。

もしそうであれば、私なら、書くことをやめるでしょう。どんな理屈をつけてみても、飯塚事件で闘った飯塚氏と、当局と協力して計算センターの事業拡大に情熱を燃やす飯塚氏は結びつけることはできません。特に、自民党の後援会活動や選挙活動に会員を狩り立てる姿は憤りを通り越して「あわれ」でさえあります。

そういう意味では、飯塚氏は、TKCの上場などにより、経済的には大いに成功したといえますが、社会的、道義的な視点から眺めると、転落の人生を歩んだといえます。

(せきもと・ひではる:元税経新人会全国協議会理事長)